担当という概念について考えてみた

 

"担当"

 

それはジャニーズファンなら誰もが知っている、そしてジャニーズファン以外にはおそらく馴染みのない概念。

 

 

ジャニーズファンの中にも"担当"という言葉をあまり好かない人もおそらく一定数いる(たぶん)。しかし担当という言葉は実に便利なものでもある。同担、他担、自担。担当という言葉を使えば様々なものを言いまとめられる 。さらに便利なのは「自担のことが好きすぎてどうしたらいいかわからない」という類のややきもちわるいツイートをしたとしてもエゴサにひっかかることがない。便利。どうでもいいけれどわたしは錦戸さんのことをなんだかはずかしくてどうしても「りょん」と呼べないので、検索にひっかかりたくないときは自担という便利ワードをありがたく使わせていただいている。(まじでどうでもいい)

 

で、タイトルの話に入っていくわけだが、まずはそもそもなぜわたしが担当という概念について考え始めたか、ということについてお話しようと思う。

 

Twitterでフォローしてくださっている方はご存知かもしれないが、私はHey!Say!JUMPの中島裕翔くんのことが好きだ。好きなのだけれど、担当かと言われれば違う。錦戸さんに対して抱く想いと裕翔さんに対して抱く想いは全然違う。何が違うと言われたらうまく答えられないけれど違う。でも裕翔のことも好きだ。好きだけれど担当じゃない。担当は名乗れない。じゃあなんだ?ファンか?私はファンと名乗っていいのか???お???

 

そんな感じで私は担当という概念について考え始めた。(どんな感じだよ)

 

裕翔のことはたぶんこれからもずっと応援するし好きだ。おじゃんぷのコンサートに行ったら絶対ゆうとの団扇を持つだろうし、無意識にゆうとを目で追うと思う。でも、この先いつか担当になる日がくるかと言われればきっとこない。きっと一生中島裕翔の担当にはならない。(こんなこと言ってて数ヶ月後に裕翔担名乗ってたら盛大に笑ってください)

 

いわゆる裕翔担の皆さんと同じくらい中島裕翔を愛せるかと言われればたぶん無理だ。どれだけ好きになっても裕翔が錦戸さんと同じ位置に並ぶことはない。うまく言えないけれど、例えて言うなら私の中に"好き"な人だけが立てる行き着く先の違う道がいくつかあって、錦戸さんと裕翔さんはそもそも立っている道が違う、そんな感じ(どんな感じ)。だからどれだけ好きになっても錦戸さんと同じくらいの存在(いわゆる自担)になることはきっと、ない。こんな生半可な気持ちのやつが中島裕翔くんの担当を名乗っていいわけがない。担当の皆様に対して失礼すぎる。逆の立場だったら私は、そんなに軽い気持ちで錦戸担名乗ってねーよ!!!!!!ってなると思う。いや、ならないかもしれないけれど、それ、担当なの?ほんとに?とは確実になる。思っても言わないけど。

 

 

じゃあ担当ってなんだ?どうなれば担当?どのくらい好きだったら担当???

 

 

私は考えた。考えてもわからない。でも考えた。考えても何の意味もない。でも考えた。考えても誰の為にもならない。でも考えた。なぜかって?単純に私自身を納得させるために。

 

 

そしてやっとその答えが出た。答えが出たのでこのブログを書くことにした。昨日ツイートした内容と重複するのだけれど、懲りずにもう一度書きます。

 

 

まず大前提として私は猪突猛進型オタクと見せかけてわりと現実的で冷めているので、ライブのグッズも基本的にはペンラとパンフしかいらないと思っているし、雑誌も選りすぐった欲しいものしか買わないし、お財布の紐は緩くはない。たぶん。

 

 

でも、本当に欲しいと思ったものは後先考えずにすぐに買う(これが俗に言うお財布の紐が緩いってやつなのか?)。言い方を変えればお金を払いたいと思うものには迷いなくお金を払う。いいものにはむしろ積極的にお金を払いたい。最近で言えば、裕翔さんのたった1ページに心奪われたがために雑誌を購入したり、買うつもりのなかったじゃんぴんぐかーにばるを購入したり、白木蓮吾を手元に置きたいがためにピングレの円盤を予約したり、バレット様見たさにさよならセンセーションを購入したり、だ。ここでひとつ大事なのは、これらはすべていいものだと知ったうえで私欲を満たしてくれるものだと知ったうえで購入を決めていることだ。裕翔が出ているから無条件で買ったわけではない。選んで買ったのだ。要するに、私が裕翔さん関連の何かにお金を払うときは、"ゆうとがいるから"という理由だけでお金を払うわけではない。払えない。

 

 

 

担当か否かの決定的な違いはここにあると私は思う。

 

 

‟単純にいいものにはお金を払いたいと思うけれど、いいものだとか何だとか関係なく、その人がいるから、その人のために、お金を払いたいという気持ちはそうそう生まれてこない”と今朝の私が言っていた。

 

 

わたしは仮に関ジャニ∞のリリースの内容がイマイチで、錦戸さんのビジュアルもイマイチで、これ、買ってもそんなに見ない(聴かない)かもなぁ、と思ったとしても、当たり前のように予約をし、お金を払い、商品を買う。錦戸さんがいる、というだけでお金を払うには十分すぎる理由になる。ごくシンプルに、錦戸さんがいるから、錦戸さんのために、お金を払いたい、いや、払わせてくれ、と思う。錦戸さんという存在そのものが自分にとってお金を払う価値があるものなのである。(さらに言えば、売れてほしい、錦戸さんに微力ながら貢献したい、そのためにお金を払いたい、払わせてください、という押し付けがましい気持ちさえある。)

 

 

 

裕翔さんに対してここまでは思えない。

 

 

 

だから要するに、"その人がいるから、その人のために、お金を払いたい、と無条件に思える存在"こそがいわゆる"担当"と呼べる存在なのかもしれない。これが私の出した答えだ。そもそも答えとかないけど。

 

 

 

 

ちなみに超余談ではあるが、上記のような存在を"担当"と呼ぶのであれば、いままで錦戸さんだけが立つことを許されてきた私の中での"担当"の道の上に突如として現れたのが最近私がかなりしつこく呟いているTravis Japanの阿部顕嵐くんなのである。錦戸さんにはまだまだ遥かに及ばないけれど、このまま好きになっていったら隣に並ぶ可能性さえある。ドキドキする。ワクワクする。顕嵐くんのためにお金を払いたい、払わせてくれ、と思う。こんな気持ち久しぶりで、こりゃどえらい沼に足突っ込んだなぁと思いつつも、内心嬉しくてたまらない。 はやくお金を払うことのできる機会を与えてほしい。

 

 

だからはやくあらちかをデビューさせたってください偉い人!!!!!!!

 

 

 

 

(主旨変わった)